Seikoの体験&活動

【母はいたけど、いなかった】 「目に見えない喪失」を抱えたあなたへ

大きな猿のぬいぐるみに、
ぎゅっとしがみつく
一匹の子猿。

その姿を見た瞬間、
胸の奥がきゅっと
締めつけられるような
痛みがありました。

その子猿は、パンチくん。

お母さんに育児放棄され、
本来なら温かい肌に
しがみついているはずの時期に、

彼が必死に抱きしめていたのは、
オランウータンのぬいぐるみでした。

Youtubeで見た動画では、
動物園にいるパンチ君を見て
「かわいい」って言ってる
お客さんたちの声があったけど

わたしには、
かわいいなんて
到底思えなかったです。

そこにあるものが、
「かわいそう」なんて
言葉では収まりきらない、

あまりにも
生々しい痛みを
想像していたから。

今、私は
娘のさらを育てています。

さらを見ていると、
痛いくらいに
伝わってくることがあります。

それは
母との絆は
彼女の命を守る
「安心の土台」だということ。

2歳くらいのときまでは
私の姿が
少しでも見えなくなると、

彼女は恐怖におののき
泣き叫んで私を呼びます。

トイレに行こうとしても、
キッチンに立っていても、
どこへでも必死についてくる。

その必死の泣き声は
まるで、
生きるか死ぬかの
瀬戸際にいるような声なんです。

その泣き声を聞くたび

母をなくす経験をした人は
体と心の奥に
こんな底なしの恐怖と悲しみが
刻まれてるんだ…

そう思いました。

子どもがお母さんに
しがみついていたいのは

言葉になる前の、
体が経験する
「安心の感触」が必要だから。

それこそが、

彼女がこの先、
自分を信じ、
世界を信じて
生きていくための

「人生のすべての土台」になるのだと
実感しています。

パンチ君を見てて
「安心できる存在」との絆が
どれほど生きるのに必要なのか
改めて、伝わってきました。

心理学ではこの絆を
「愛着」と呼び、

特に母と子の関わりの中で
培われます。

「そのままの自分が
受け入れられ、守られ
愛されている」

という
命の安心感のことです。

反対に、

泣いても誰も来なかったり、
親の気分で拒絶されたり、
心が通わなかったりすると、

この土台に
「ヒビ」が入ってしまいます。

愛着の傷は、
必ずしも
分かりやすい「事件」として
起こるわけではありません。

お母さんは
たしかにそばにいた。

けれど、
抱かれなかった。

泣いても、
応答してもらえなかった。

そこに体はあっても、
心はどこか遠くにいて、
情緒的には
「いないのと同じ」だった。

それは子どもにとって、
“目に見えない喪失”なんですよね。

死別や離別のように
目に見えて分かる
喪失じゃないけど

心の中では
一番欲しかったものを
何度も「失う」体験が
繰り返されている。

これは
赤ちゃんのときだけの
体験ではないと感じます。

幼少期から
大人になるまでの間、

母との間で
あったかい心の交流がないと

「分かってもらえなかった」
「聞いてもらえなかった」
「ありのままを愛されなかった」

という心の傷が
心の奥深くに残るなあと
強く実感しています。

それは、
大人になってから

名づけようのない悲しみ。
理由のわからない孤独や怒り。
誰かとくっついていたい衝動。
人とうまく関われない悩み。

そして、

大人の自分が
いくら頭で考えても消えない、
しんとした空虚感。

そんな感覚として現れます。

子どもの頃に
「安心できる存在」を
経験できないと

のちに生きづらい人生に
苦しむことが多いのです。

そのくらい
子ども時代の
母親との関係は重要。

私のもとに
来られる方の多くも、

この「目に見えない喪失」を
静かに抱えています。

親はいたけど
いなかった。

親はいたけど
どこかが、ずっと寒い。

どこかが空っぽ。

何をやっても満たされない。

その苦しみは、
とても、とても
深いところから
やってきています。

ありとあらゆる
生きづらさの根底には、

「望むように愛し
愛されたかった」

という、
命としての切実な願いが
横たわっています。

そして

その本能の願いが
叶わなかった深い悲しみが
ともにあります。

私自身も
それを経験しました。

だからこそ、
あのパンチくんの姿が、
他人事とは思えない痛みとして
伝わってきたのだと思います。

子ども時代に経験した
「親を失う体験」は、

たとえ物理的に
親のそばにいても、

心の奥に疼く
傷として残ります。

それは、
もしかしたら一生、
消えない悲しみかもしれません。

でも、
最近こうおもうのです。

その悲しみが
あるからといって、

幸せを感じられないわけではない。

悲しみを抱えたままでも、

あなたはあなたの人生を
喜びで満たすことはできます。

大切なのは、

その悲しみを
「なかったこと」にしない
ことではないでしょうか。

乗り越えようとか
克服しようととか
癒やしを急がないこと。

その悲しみを、慈しむ。

その悲しみと、共にいる。

慈悲は
「慈しみ、悲しむ」
と読むのではなく

「悲しみを慈しむ」
という意味だとおもうのです。

それが「癒える」
ということなのではないでしょうか。

私は、
一人ひとりの
愛着の傷に触れるたび、

言葉の無力さを感じます。

どんな言葉も、
どこかうすっぺらく、
届かない気がしてしまう。

悲しみの海の底にいる人の前で、
私にできることは
たった一つしかなくて

ただ、その人の隣に
一緒に座っていること。

「早く楽にさせてあげなきゃ」と
焦ったり、

励まそうとしたりせず、

一緒に
その耐えがたい悲しみを感じること。

今まで誰にも
気づかれなかったかもしれない
その気持ちを、
そのまま大事に受け取ること。

もし、
あなたの中にも、

説明のつかない
孤独や空虚さがあるのなら

それはあなたが
弱いからではありません。

懸命に愛を求めて
愛を得られなかった
かつての小さなあなたが

いまもなお
悲しい思いをしているのです。

悲しみを抱えたままでも、
あなたは幸せになっていい。

むしろ、
その悲しみを
大切にできる人こそ、

深く愛し、
深く生きる力を
持っているはずだから。

もしよかったら、

あなたの中にある
その「しがみついた
ぬいぐるみの記憶」について

今感じていることを
教えてください。

私は、
あなたの悲しみの海のそばに、
静かに座っています。