Noと言えない人間関係

害になる人間関係を解消してもいいの?

読者の方から質問をいただきました。
『聖子ちゃんのblogの投稿
とても興味深く読ませて貰いました✨
早速、私も
自分に許可する言葉の例文を書き写して
声に出して読んでいます✨
その中の
「私は必要でなくなった
害になるような人間関係を解消してもいい」
のことなのだけど、、、。
私は、どーーしても気の合わない、
考えの合わない人と、
大人になっても
いじめにさえあっているのに、
頑張って頑張って
付き合っている人がいるのだけど。
それは、時々頼みたいことがあるから
なんだけれど、
実は、繋がっていること自体が、
大きなストレスになっている。
でも、聖子ちゃんのblogを読んで、
この人との関係を
解消してもいいのかな…と
思ってしまった。
その一方で
「相手も最高の可能性があるのだから
信じて関わっていく
べきなのかもしれない」
そう思って
表向きは頑張って繋がってる。
どうしていいのか分からない。』
わたしの返答は
❝うん、
自分がイジメられるような
人間関係はやめていいし、
ハッキリ相手に
「そういうことされると傷つく」
って、言えたら、なおいいよ。
そんな何かを頼むために
自分を犠牲にして
つながり保つをなんて、意味ないよー。
我慢=ストレスだから。
その人との関係が終わっても、
他に新しい友達作ればいいじゃん(笑)❞
******
尊重されない扱いをされたら
誰でも、傷つきます。
そう感じるのが
「ありのままの自分を大切にする」
ということだと、わたしは思います。
以前、
マインドフルネスの瞑想を実践している
ニュージーランドの女性から
こんな質問を受けたことがあります。
「仏教のCompassion(慈悲)の実践は
どんな人にも寛容になることを
教えていると思うのだけど…
でも、わたしをけなしてくる家族に
寛容でいようとすると、
逆にくじけそうになるときもあるの。
自分を傷つける相手も
許さないといけないの?」
自分の本音と
スピリチュアルの教えのはざまで、
身動きがとれなくなっていることって
意外と多いのです。
ここから先は、わたし個人の考えなので
「そういう見方もあるんだね」
くらいの気持ちで
聞いていただければ幸いです。
わたしは、本当のCompassionは
すべてを包み込む愛情だけでは
ないと思うんです。
傷つける相手に、Noということも
Compassionの現れだと思うのです。
それは、自分を守る慈悲。
と同時に、
人を傷つけて平然としている
相手に対して、
ハッキリ「いやだ!」「やめて!」
と言うことも、
慈悲の現れだと思うんです。
どういうことかと言うと、、、
ハッキリ言い切ることで、
相手の中にある【愛の可能性】を
呼び覚ますキッカケに
なるかもしれないから。
わたしも、誰もが可能性を持った
存在だと信じています。
でも、だからといって
傷つけて平然といれる人に
傷つけられても
やさしく接し続けることは
違うと思う。
傷つける人の
愛の可能性は、
岩のようにかたーい殻で
覆われているような
状態だと思います。
本来の慈悲が
闇に覆われている状態で、
やさしくソフトなアプローチをしても、
その硬い殻を破れません。
ハッキリと【No】ということ、
その正義の怒りの声が、
眠っている慈悲を
呼び覚ますことができる。
正義の怒りが、
自他ともの幸福を生み出す
チカラとなると思うのです。
命を尊重し、守るためには、
時に、断固として戦うことも
大切だと思います。
その覚悟があって初めて
自分と誰かの命を
本当の意味で、
守り、愛することが
できるのではないでしょうか。